ヤマチの連邦多角化経営と自主自律型の経営はいつから始まった?

多角化・新規事業

石崎 貴秀
石崎 貴秀

こんにちは、ヤマチユナイテッドの石崎です。

私たちヤマチユナイテッドグループは建材卸業から始まり、2024年12月時点で創業66年を迎えました。

今では住宅、イベント、福祉、飲食などさまざまな分野にわたって事業を展開しています。

ここまで規模を広げていくことができたのは、単純に個々の事業がうまくいったからだけではなく、それぞれを連携させてシナジー効果を生み出す「連邦多角化経営」と、幹部主導、社員全員参加の自主自律型の経営手法とをうまく噛み合わせることができたからです。

今回は、ヤマチユナイテッドの60年以上の歴史のなかで、いつから連邦多角化経営と自主自律型の経営を始めたのか、どのように経営手法を取り入れてきたかというお話を皆さんにご説明していきたいと思います。

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目次

  1. ヤマチの連邦多角化経営はいつから始まった?
  2. 金融ショック以降のヤマチの激動と連邦経営強化に至るストーリー
  3. 連邦多角化経営と自主自律型の経営を導入するメリットは?ヤマチの組織運営体制もご紹介
  4. ヤマチの連邦多角化経営は現在進行形で進化中!ここまでの取り組みの効果は絶大

ヤマチの連邦多角化経営はいつから始まった?

ヤマチユナイテッドの連邦多角化経営がいつから始まったのか、これまでの歩みとともにご紹介します。

山地が山地商事に入社:1982年~

ヤマチユナイテッドが連邦多角化経営を取り入れたのは、現在のグループ代表山地 章夫が入社してからのこと。

北海道生まれの山地は道外の大学を卒業してから、いったん大手コンサルタント会社に就職しましたが、これはいずれ経営者となる将来を見据えてのことでした。

それからさらに中小企業大学校で経営理論を学び、北海道へ戻って1982年に、父である山地 庸夫が経営する山地商事へ入社しました。

山地商事は1958年に山地 庸夫が創業して以来、建材卸業一本でしたが、山地の入社に際しては「新規事業を開発してほしい」と期待をかけていたそうです。

山地が山地商事に入社した当時(1982年頃)はいわば住宅建築不況時代。

建材卸は基本的に薄利多売で粗利益率が低く、この頃は業界の慣例で手形取引が主でしたから、リスクが高い割に収益性も低いというビジネスモデルで、会社の将来を考えると事業の存在価値自体が弱まっていく可能性もあると危惧していたからです。

山地自身も「創業型の経営者になろう」と、住宅販売事業、レンタル事業、ホームセンター事業などの新規事業開発に取り組み、やがて40代を迎える頃にはある程度権限委譲が進んで、実質的に経営全般、事業運営全般の担い手となっていました。

経営者としてまだ若くパワーに満ち溢れた時期。

しかし、大きな悩みに直面します。

それはいわゆる「経営者の孤独」であったり、業績および社員とその家族に対する責任感と重圧であったり、新規事業開発や人材採用の権限・責任が自分一人に集中していることであったり...。

このほかにも言葉にできない経営者ならではの悩みを多く抱えていたことと思います。

「このままで良いのだろうか?」と自問自答しても答えが出ないなか、一つの出会いが山地を救いました。

ヤマチユナイテッドグループを3社4事業に:1995年~

1994年頃、ある会計事務所のオーナーが講演会を開くというので聴きにいったところ、「社長が辛い思いをしていてはいけない」という言葉にハッとします。

その方は講演会で「社長が一人ですべてを背負っていてはいけない」「もっと幹部や社員を信じて、きちんと仕組みを整えた上で権限委譲し、社長は社長の本来やるべきことをしなさい」という話をされたそうです。

そして「家族と過ごしたり趣味を楽しんだりする時間を削って四六時中会社や社員のことを考えるのは素晴らしいが、社長にだってプライベートの時間は必要だし、それくらいの余裕がないと、そもそも会社の将来と事業の発展を考える時間も持つこともできない」という話も。

その方が言う「任せる経営」とは、幹部や社員が主体性を持って自律的に事業を運営する、経営に参加するということでした。

このような経営、このような考え方に変えていかないと、いつまでも今の状況から抜け出せないという話に大きな衝撃を受けた山地は「任せる経営」について勉強し、1995年に社員参加型・自主自律型の「システム経営」をスタートさせました。

1995年頃、ヤマチユナイテッドグループとしては3社4事業を展開していました。

建材卸と2×4パネル製造の「ハウジング山地」(「山地商事」から社名変更。現在の「ヤマチコーポレーション」)、レンタル事業の「イーレント」(現在の「アンカー」)、住宅販売の「ジョンソンホームズ」です。

翌年の1996年はちょうど私(石崎)が入社した年ですが、当時でももう事業別の営業利益管理がなされており、新卒1年目の私たちですら売上、粗利益、営業利益が見られるようになっていたのを覚えています。

この取り組みは現在のオープン経営、管理会計につながるもので、経理の神様と言っても良いほどその分野に長けた山地 庸夫会長がベースを作っていたんですね。

また、社員参加型経営の象徴的な仕組みでもある委員会活動もすでに行われていました。

ヤマチユナイテッドの連邦多角化経営の素地は、このあたりから形成されていたのです。

金融ショック以降のヤマチの激動と連邦経営強化に至るストーリー

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社員参加型の新しい経営手法を取り入れ、1996年には持ち株会社として「山地ユナイテッド株式会社」を設置したことでホールディングス経営体制に移行していった私たち。

連邦多角化経営がより円滑に進んでいくと思いきや、苦難の時代に突入します。

北海道は深刻な金融ショックに:1997年

1997年3月、山地はグループ内1社の代表を務めていましたが、バブル崩壊の煽りもあって「アンカー」が債務超過に陥ったため、業績改善を図るべく志願して同社の社長に就任し、事業の絞り込みや撤退、拠点の集約などと並行してリストラに着手しました。

40人いた社員は20人にまで減ってしまいましたが、どうにかV字回復の目処が立ったその矢先。

1997年11月、北海道拓殖銀行と山一證券が相次いで破綻し、アジア通貨危機に輪をかけて北海道は深刻な金融ショックに見舞われました。

先が見えない底なしの不況下、住宅産業中心の当グループも転げ落ちるように業績不振に陥りました。

得意先の倒産が多発し、手形回収が多かった「ハウジング山地」は多数の不良債権の発生にみまわれることに。

毎週のように得意先倒産の知らせが入ってきたこの時のことを、山地はのちに自著で「その恐怖感は今も思い出します」と書き綴っています。

けれども、そのおかげで経営をとことんやろうと覚悟が定まったのでした。

業績は過去最悪:1998年~

年が明けて1998年3月、業績は過去最悪でした。

山地は今こそトップ交代のチャンスだと、再び志願によってグループ3社すべての社長に就任しました。

しかし、どう考えても黒字の経営計画が組めない苦境。

企業存続を優先させなければ屋台骨が揺らぎかねない窮状であったため、心を鬼にして事業と人員のリストラを進めざるを得ませんでした。

その裏では、若い社員が多数去った喪失感、環境の急激な変化にリストラでしか対応できなかった無力感、財務体質の弱さ、社員に未来を示すビジョンや希望となる事業がない苦しみに苛まれ、これらの感情が現在の経営の原点になったといいます。

その後しばらく苦しみ抜いた末、ついに新事業モデルの開発に成功。

ジョンソンホームズ」の新築住宅販売ノウハウをパッケージ化してフランチャイズシステムを確立したことを皮切りに多角化が進んでいき、2002年になってようやく会社が成長路線に乗りました。

金融ショック以降のヤマチの新卒採用活動:2003年〜

ヤマチの新卒採用活動は1997年の金融ショックを受けていったん休止していましたが、2003年から再開しました。

再開1年目の2004年入社の社員はごく少数でしたが、徐々に人数を増やしていき、2007年には8人、2008年には12人を採用することができました。

この2007年組、2008年組が3~4年後に大きな成長を遂げ、委員会活動が飛躍的に活性化したことがとても印象に残っています。

2010年代に入る頃には新卒採用が十数人規模になっていましたから、次々と入ってくる優秀な若手に刺激され、ボトムアップで成長が促されたこともあったでしょう。

2008年組の1人はいまや「アンカー」の事業責任者となって次々と新規事業を打ち出し、グループ拡大に一役買うほどの活躍を見せています。

多角化を経営戦略とする当社のような企業にとって、採用活動は事業責任者となる人材を多数育てるための先行投資でもあるのです。

組織の連邦化をスタート:2004年~

2004年、山地は5社の社長を兼任していましたが、またも経営の壁にぶち当たりました。

従来の独立採算制によって営業利益管理がしっかりできていたおかげで各社の業績は上がっていましたが、その半面、事業部が増えれば増えるほど縦割り組織の弊害、つまりセクショナリズムが顕著になっていったのです。

社員参加型の経営で自身の業務に専念できるよう努めていたはずの山地自身も、5社の事業責任者を兼任している状態では手いっぱい。

業績管理や指示命令はもとより、トラブル相談に訴訟対応と、一つ収めればまた別のところで問題が発生するモグラたたきのような日々を送り、その上、月初は各社の会議をハシゴしているような状況でした。

私たちの目から見ればスーパーマンのような山地でも、1人ですべてを切り盛りするのは限界だったと思います。

こうして5社を兼任することの難しさを痛感した結果、改めて取り組むことにしたのが組織の連邦化でした。

2005年、セクショナリズム解消とさらなる発展を見据え、ヤマチユナイテッドは連邦経営をスタートしました。

手始めはグループ経営推進会議の設置。

横の連携を作っていくために当時十数人いた事業部長やマネージャー達といった幹部クラスの社員を集め、最初は互いを知ることを目的としたディスカッションが行われました。

ディスカッションといっても、当時の幹部たちは自分の事業部のことに一生懸命でほかの事業部への関心が薄く、よそがどのようなビジネスモデルで、どのような顧客を相手にどういう営業活動をしているかもわからない状態です。

そのため、「どのような商品・サービスを扱っていますか?」といった初歩的な質問とそれに対する回答といった形です。

このようなやり取りが1年ほど続き、それからようやく互いの業績や取り組みに対してアドバイスしたり、ツッコミを入れたりといったことができるようになっていきました。

山地が狙いとしたのは、当時の幹部たちに経営者と同じ目線でそれぞれの事業をしっかりマネジメントしてもらうと同時に、横の連携を取ることによってすべてのグループ会社が一つの利益共同体として一緒に成長していくこと。

価値観の目線を合わせ、他の事業部の誰が何をしているかを知れば、ある事業部で新規事業を立ち上げようとしたときに協働したり、シナジー効果が生まれたりすることを期待したのです。

事業部ごとにバラバラだった役職別の職能要件について共通項目をまとめることも、グループ経営推進会議のテーマの一つでした。

こちらのコラムもあわせてご確認ください。

縦割り組織のデメリットを改善!セクト主義を防ぐ多角化企業の運営体制

シナジー効果を生み出す多角化企業の成長戦略!効果的なグループ連携会議の設計と運営方法

「THE 100VISION」を掲げる:2006年~

2006年、連邦経営を強化するにあたり、夢のある前向きなグループビジョンを求めていた山地は「THE 100VISION」を掲げ、2007年には「楽しむ経営の実践」を目指し、社員も仕事を楽しみながら自主的に動く組織づくりに注力しました。

「THE 100VISION」とは、「100の事業を展開し、それを担う100人の事業責任者を育て、100年続く会社にする」という大きな目標です。

こうして人材育成がこれまで以上に重要な経営戦略の一つとなりました。

リーマン・ショック:2008年~

2008年のリーマン・ショックの際には「ジョンソンホームズ」が初めて赤字で決算するという痛手を負いました。

しかし、これがきっかけで「ジョンソンホームズ」は企業ミッションの整備を行い、驚異的に業績が上がったばかりか、社員がより生き生きと働いてくれるようになりました。

このようにリーマン・ショックを乗り越え、そして2011年に発生した東日本大震災後のピンチも乗り越えたヤマチユナイテッドはコンスタントに人材採用ができるようになり、事業を増やし、次第に成長加速のフェーズに入っていきました。

「THE 100VISION」の「2030年達成」を宣言:2022年~

2022年に創業65周年を迎え、2023年秋にはあえて達成期限を設けていなかった「THE 100VISION」の「2030年達成」を宣言。

また、2024年度からは「北海道から色んな世界を変えていく」という新たなパーパスを実現するために「THE 100VISION」をグループビジョンからグループミッションに据え直し、14のコアバリューを定めました。

そしてパーパス、ミッション、コアバリューに経営方針、経営計画を加えたものが2024年現在のヤマチユナイテッドのグループビジョンとなっています。

連邦多角化経営と自主自律型の経営を導入するメリットは?ヤマチの組織運営体制もご紹介

ヤマチユナイテッドは「連邦多角化経営」と「自主自律型の経営」をベースにさまざまな取り組みを続けることで、業績向上に大きな効果を上げています。

連邦多角化経営と自主自律型の経営を導入した場合、皆さんも得られるであろうメリットを6つにまとめてみました。

①自主的に運営されるオートマチックな経営にシフトできる

オートマチックな経営とは、当社で言う「システム経営」のことです。

自主計画、自主管理、そして自主評価のもとに実行される自主分配がなされると、自動的に組織が動くようになります。

②一定の仕組みやルールのもとに運営される組織的経営が整う

新規事業は未経験の事業を手がけるということですから、多角化経営において、不正やロスを含めたリスク管理ができていないと非常に危険です。

仕組みとルールをしっかり整備することにより、既存事業も含め安心感を持って多角化事業を展開できます。

③自主運営を通じて社員が成長し、経営者人材が育つ

グループ共通ビジョンのもと全員参加で運営していますから、社員は上から与えられた仕事をこなすのではなく、主体的、自律的に動くようになります。

また、若いうちから会社の経営に触れる経験を積み重ねてもらうことで、経営者人材が育つ土壌ができます。

④事業が多角化しても受け皿となる組織ができる

連邦化していくなかでグループ横断型の組織を設置し、管理面、人材面のサポート体制や協力体制が整います。

⑤事業が増えても相互に競争、連携、協力し合いながらシナジーと成長を追求していく経営基盤ができる

連邦化により縦割り組織が解消されることで、グループ全体の利益を考えて計画を立てられるようになるでしょう。

ヤマチユナイテッドでは、社内SNSなども活用しつつ、グループ内での協働や連携は当たり前のこととして日々行われています。

⑥M&Aにも積極的に取り組める経営管理手法が整う

M&A(合併・買収)は多角化と事業成長拡大の一つの手法ともいえますが、①~⑤のようなメリットを享受できる経営基盤と組織体制が整い、仕組みがしっかり機能していると、PMI(Post Marger Integration=M&A後の統合プロセス)がうまく進みます。



多角化戦略についてもっと知りたい方は、こちらのコラムで詳しくご紹介しています。

事業多角化する理由とは?多角化する方法やヤマチの事例を紹介!

多角化戦略12のメリット。多角化経営が可能にすることとは

ヤマチの組織運営体制のポイントをご紹介

業績が右肩上がりで伸び、組織も順調に拡大していったヤマチユナイテッド。

連邦多角化経営と自主自律型の経営を導入しただけではなく、経営の仕組みを都度見直してきたことも大きく働いたと思っています。

そのなかでも皆さんにお話ししておきたいのが「HQ(ヘッドクォーター)会議」と「グループ管理本部の設置」です。

ヤマチの組織運営体制①HQ会議

HQ会議の前身は、2005年にスタートしたグループ経営推進会議です。

グループ経営推進会議で業績の共有ができるようになってきた頃、経営計画はすでに各社、各事業部で個々に立てていましたが、これを変更し、最初にグループ合算の計画を立ててから各社、各事業部へ振り分けていく形に。

そして会議の名称は「グループ執行役員会」に変更しました。

その後、事業が増えるにつれて事業責任者も増えていったため、グループ執行役員会を「グループ役員会」に格上げし、代わりに「HQ会議(グループ経営会議)」を設置。

HQ会議には各事業責任者が出席し、業績報告と進捗管理のほか、成果分配などグループ共通ルールの整備や調達といったことも行われます。

成果分配制度の魅力

成果分配は、私たちの自主自律型経営の重要なポイントで、私たちは「システム経営」と言っていますが、自主計画、自主管理、自主分配が3本柱。

現場の社員が自分たちで計画を立て、自分たちで進捗を管理し、自分たちで成果分配を行うというものです。

成果分配のルールができてもしばらくはなかなか分配するまでには至らなかったのですが、2012年あたりから支給できるようになっていきました。

一度成果分配が出たとなると、社員は当然「また欲しい」と思いますし、幹部陣としても「また出してあげたい」と考えるもの。

業績を上げれば出るということはもうわかっているので、これ以降は現場の社員の「もっと生産性を上げていこう」という意識と主体性に拍車がかかったと実感しています。

また、会社や事業部門同士で「あちらは多く出た」「こちらももっと頑張ろう」と、良い意味での競争心が芽生えたので、業績の発展や生産性の加速にも繋がりました。

納得できる給与制度の考え方。肝となる「成果分配」の仕組みについて」もあわせてご覧ください。

ヤマチの組織運営体制②グループ管理本部の設置

グループ管理本部は当初、グループ経営推進会議の事務局という位置付けで「グループ経営推進本部」という名称の組織でした。

組織といっても実は私1人の部署で、当時所属していた「ハウジングヤマチ(現在の「ヤマチコーポレーション」)」の管理部との兼任。

会議の裏方として当時整備中だった評価基準などの書式を作ったりする仕事をしばらく続けていくうち、1人、2人とスタッフが増えてくると、グループ内の管理業務をここで行うようになりました。

要は、グループ内で管理部門や総務担当者、経理担当者を置けないような規模の会社の人事、労務、社会保険、給与、経理、会計といった業務を引き受けていたということです。

とはいえ、メインの業務は連邦多角化経営に関わるルールづくりや仕組みづくり。

そして財務の役割も担っていました。

例えば、長短貸借金がピークに達した2007年、その額は25億円に。

グループの業績は上がっていましたが、グループ経営推進本部としては余剰在庫の現金化などさまざまな手を使って資産の圧縮を図り、2011年には長短貸借金を10億まで下げることに成功し、預貸率も100%を達成することができました。

そして、財務の整理とスリム化を進めたのと同時期に不動産担保や連帯保証も解除。

その後は事業ニーズに応じて凹凸はあれど、長短借入金を減らし、現預金を増やしてきたことで預貸率は2倍以上になりました。

グループの財務改善も管理部門の重要な役割

財務改善は管理部門があれこれ言ったところで進められるものではなく、営業部門の理解や協力を得つつ、局所的な話とグループ全体の話を織り交ぜながら取り組まなければ良い結果は見込めません。

連邦多角化経営には財務改善の視点も必須で、必要があればそこから逆算した経営計画、投資計画を立てることも含めて強化していかなければなりません。

また、改善の状況をアウトプットすることによって経営陣からフィードバックを得て、相互理解を形成していくことも管理部門の役割として大きいと思います。

現在は各社それぞれに管理部門がありますが、私が所属しているグループ管理本部は各社の管理部門のスタッフが集まっているのではなく、グループ横断型のバーチャルな組織として存在しています。

グループ管理本部の具体的な業務としては、以下のようにさまざまな業務があります。

  • 総務・経理部門の取りまとめ
  • グループの経営計画の取りまとめ
  • 財務全般
  • 新卒採用 など

グループ管理本部は「グループ全体の最適化を図る」という目的のもと、こうした業務に携わっており、連邦多角化経営においてとても重要な視点であると同時に、今後のグループの規模や全体の経営戦略にあわせて、必要な組織体制に進化していくと考えています。

ヤマチの連邦多角化経営は現在進行形で進化中!ここまでの取り組みの効果は絶大

ヤマチユナイテッドは、業績が最も落ち込んだ金融ショック以降の時期から15年くらいかけて今の状況まで業績を上げてきました。

今では住宅、イベント、福祉、飲食などさまざまな分野にわたって事業を展開していますが、ここまで規模を広げることができたのは、「連邦多角化経営」と「自主自律型の経営手法」をベースに、さまざまな取り組みを続けてきたことが大きいでしょう。

連邦多角化経営と自主自律型の経営を導入することで、得られるメリットは以下のとおりです。

  1. 自主的に運営されるオートマチックな経営にシフトできる
  2. 一定の仕組みやルールのもとに運営される組織的経営が整う
  3. 自主運営を通じて社員が成長し、経営者人材が育つ
  4. 事業が多角化しても受け皿となる組織ができる
  5. 事業が増えても相互に競争、連携、協力し合いながらシナジーと成長を追求していく経営基盤ができる
  6. M&Aにも積極的に取り組める経営管理手法が整う

事業が増えるにつれて、新規事業で異業種へ参入したり、特にM&Aとなると、ルールも違えば社員の意識も違う会社の合流に不安を感じるケースも多いと思いますが、そういったルールや意識を自社に融合していくのに有効な経営の基本形をすでに持っていれば、恐れることはありません。

ヤマチユナイテッドの連邦多角化経営は、これが完成形ではありません。

「皆でもっと会社を良くしたい」と常に考えている私たちは、現在進行系で進化中なのです。

新しい工夫や取り組みは、当グループが主宰する「連邦・多角化経営実践塾」や各種セミナー・イベントなどで、今後も発信していきたいと思います。

経営の仕組みづくりや組織整備をはじめ、ヤマチの経営手法をもっと知りたいと思われる方は、「連邦・多角化経営実践塾」へのご参加もご検討ください。

連邦・多角化経営実践塾

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